こんにちは、akoです。
マルクス・アウレリウスの著書『自省録』はストア哲学の思想が元になっています。
現代の「ストイック」という言葉が、ストア哲学から来ているように、ストア哲学といえば、禁欲、忍耐というイメージで、あまり人気がないのだそうです。
なのになぜ、ストア哲学に魅せられたのか?
主に宗教と比較して、その理由を考えてみました。
photo credit: 5telios Marcus Aurelius via photopin (license)
他者に(神にさえ)依存しない姿勢
曇りなき心を持ち、外からの助けを必要とせず、また他人の与える平安を必要とせぬよう心がけよ。(人に)まっすぐ立たせられるのではなく、(自ら)まっすぐ立っているのでなくてはならない。
ストア哲学はとても自律的な思想です。
自分でどうにかできること、できないことに分けて、どうにもならないことはくよくよ考えないように努めます。
漠然と、幸せになれますようにとか、病気が治りますようにとか、神にお祈りを捧げるようなこともありません。
神の存在は信じているようですが、願いを叶えてくれる対象ではないようです。
神に限らず、何か他者に自分の幸せをお願いする姿勢がないのが魅力的でした。
常に自分の言動を振り返り、善き人間であるかチェックするような生き方です。
そこがストイックということになるのでしょうが、あくまで自分軸で生きている点が魅力なのだと思います。
神を賛美して、自虐したりしない。
君の頭の鋭さは人が感心しうるほどのものではない。よろしい。しかし「私は生まれつきそんな才能を持ち合せていない」と君がいうわけにはいかないものがほかに沢山ある。それを発揮せよ。なぜならそれはみな君次第なのだから、たとえば誠実、謹厳、忍苦、享楽的でないこと、運命にたいして呟かぬこと、寡欲、親切、自由、単純、真面目、高邁な精神。今すでに君がどれだけ沢山の徳を発揮しうるかを自覚しないのか。こういう徳に関しては生まれつきそういう能力を持っていないとか、適していないとかいい逃れするわけにはいかないのだ。それなのに君はなお自ら甘んじて低いところに留まっているのか。
ストア哲学は禁欲、忍耐というイメージらしいのですが、決して「自虐的」ではありません。
以前、キリスト教に関する本を読んだとき、あまりに自らを卑下する表現が多くとまどいました。
こんな塵にすぎない自分でも、あなたの教えを守り祈り続ければ・・・
マルクス・アウレリウスは、人はどうせいつか死ぬ、という冷めた視点は持っていますが、「自分はどうにもならない塵のような存在」とはいいません。
逆に、できる!できる!というかやれ!というようにあくまで前向きです。
自分にできないことを悟ることと、自虐的になることは大きく違うと思います。
宗教関係の本を読むと時々つらくなるのは、自虐的すぎる信者の姿勢。
『自省録』にはそれがなく、ある意味自由なところが魅力なのだと思いました。
自分に対する信頼
あることが君にとってやりにくいからといって、これが人間にとって不可能であると考えるな。しかしもしあることが人間にとって可能であり、その性質にかなったことであるならば、それは君にも到達しうることだと考えるべし。
『自省録』は全体を通して、自分を鼓舞している表現が多いです。
自分に対する信頼があってこそだと思いました。
逆に考えると、自分に対する信頼がなくなる=善い人になんてならなくていい、快楽的に生きてしまえ、皇帝としての務めなんてどうでもいい、ということになりかねないので、努力して自分への信頼を保っていたのかもしれません。
甘えず頑張っている、マルクス・アウレリウスの孤高な姿がとても胸を打ちます。
まとめ
『自省録 』を読んで色々考えさせられたので、今回はその魅力をまとめてみました。
たくさんの人に読んでほしい本です。